子育てコラム Column about Child-rearing » »タイトル一覧へ戻る



「子育て」を考える

根ケ山 光一

掲載:2015年2月8日




 「子育て」とは、子どもを育てることです。このわかり切ったことから話を始めるのは、そこに重大な落とし穴があることを確認しておきたいからです。育てるという他動詞を用いるとき、子どもは大人からその行為を向けられる対象ということになりますね。弱く従順な子どものイメージです。

 しかし「親はなくとも子は育つ」ともいいます。この場合、育つという自動詞は子どもの主体性を意味します。こちらはたくましく、したたかな子どものイメージです。ときに「親はあっても子は育つ」とすらいわれるとか。間違った愛情は、子どもにとってありがた迷惑ともなるのです。

 また、俗に「育児は育自」ともいわれます。それは子どもを持つことで親が成長するという意味で、実は親も子どもに育てられるということなのです。確かに、自分の意のままにならない子どもを前にして、親は我慢や思いやり、勇気などを学びます。何のことはない、親も子も両方育つというわけです。「とも育ち」ですね。

 「子育て」場面の登場人物は親子だけで完結してはいません。周囲の多様な第三者を巻き込み、その第三者とまなざしが交錯するなかで、子どもは第三者の目に映る自分の姿を見ながら育ちます。第三者とは必ずしも単数ではなく、人の集合体と考えるべきで、そこにはモノや制度も含まれます。つまりは社会ということになります。そこから子どもはルールや文化を学びとりますが、社会も子どもからいろいろと教えられることがあります。とくに、冒頭で述べた落とし穴にはまってしまった社会にとっては、子どもの主張によく耳を傾けることの意義は大きいでしょう。それがあって初めて、子どもと大人の健全な共生社会が実現するのだと思います。


【著者紹介】

根ケ山 光一: 早稲田大学人間科学学術院教授