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子育てのクロス・ロード 2

梅崎高行/細川美幸 往復書簡

掲載:2018年4月28日




前回からの続きです。
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 今日は子供の習い事の日ですが、子どもが『行きたくない』と言いはります。
あなたはそれでも連れて行く?

梅崎  
5.表の問い3 
次のうちどの接し方が,習い事に対する子どもの動機づけに有効か。①行かないならやめなさいか,②行ったらご褒美をあげるか,③とにかく行きなさい!か。

 表の問い,最後の3です。選択肢の中では何を差し置いても,「行ったらご褒美をあげる」についての,Lepperさんら(1973)の有名な研究に触れないわけにはいかないでしょう。
 Lepperさんは,自発的にお絵描きを楽しんでいる子どもたちにごほうびをあげました。するとどうなったでしょう。何と,それ以前に比べて大幅に,自発的に絵を描く姿が見られなくなってしまったのです。「大好きなお絵描きが,仕事になってしまったから」とLepperさんは説明します。
 この研究から学べば,3択のうち少なくとも避けたい接し方は,この②であることは間違いありません。しかし,本当にそうなのでしょうか。そして,仮にそうであるとして,①と③ではどちらが望ましいのでしょうか。これが私の最近の関心でもあります。
 もしかしたら,この関心を披露させていただくことで,細川さんの問いに近づいていけるかもしれません。ということで,しばらくお付き合いいただけると幸いです。

6.Grolnickさんの研究(1)
 細川さんのように,先生や指導者以前に子どもが出会う親の関わりが基盤となって,後の学ぶ姿勢がかたちづくられるのではないかと考える研究者がいます。Grolnickさんです。彼女は,自己調整学習の文脈で,再脚光を浴びるようになった人だと私は認識しています(もし違っていたら,ご指摘いただければ幸いです)。
 Grolnickさんは,自己決定理論で有名なRyanさんらと一緒に,1980年代から90年代にかけて力的に,子どもの自律的な学習を支える子育てについて研究しました。もちろん今もご活躍です。
 Grolnickさんが挙げる,自律的な学習を支える養育のポイントは,次の3つです。

 1つ目は,自律性支援orコントロールの視点です。
 自律性支援とは,Vygotskyさんの概念として有名なスキャフォールディング(足場かけ)そのものを指し,一方コントロールは,'転ばぬ先の杖'に相当する養育だと説明されています。子どもの主体性を無視した方向づけは,コントロールに相当します。

 2つ目は,ストラクチャー(構造)です。
 たとえば親が子と交わす「9時には寝なさい」という約束を考えてみましょう。こうした約束が,ブレずに一貫して守られているような状況が,ストラクチャー有りに相当します。一方,昨日は11時まで起きていても怒られなかったのに,今日は8時にもかかわらず怒られるといった行き当たりばったりの状況は,「どうしたらいいんだろう?」と子どもの混乱を招きます。Grolnickさんはカオスとこれを呼んで,ストラクチャーが無い状態と説明します。
 ちなみにGrolnickさんは,さすがに自己決定理論のRyanさんらと共同研究をされているだけあって,このストラクチャーについても,たとえば「9時に寝る」といった約束がどのように決められたのか(約束の決定に子どもがどの程度関わったのか)や,守られるにしても子どもがどのくらい納得しているか,といった点を重視しています。

 3つ目は,すでに挙げた自律性支援とストラクチャーが十分条件となって決まる,より高次な養育としての関与です。
 極端な例を挙げればネグレクトは非関与に当たりますが,これはあくまで極端な(と信じたい)例であって,一般的な養育で問題とされるのは,その関与が自律性支援的で,かつストラクチャー有であるかどうかという点です。
 仮にもし自律性支援的で,ストラクチャー有であれば,子どもたちは学びに対して有能感をもち,自己調整的に学んでいけるとGrolnickさんは考えています。
 なお,よく見られるのは,関与は関与でもわが子可愛さのあまり,せっかく子どもが自主的に取り組んでいるのに,あれやこれやと口出ししてしまう関与です。それは不適切な関与であり,コントロール的な養育にむしろ近いと言えそうです。

 細川さん,いかがですか?こうした整理に,普段口うるさい父親である私は大いに反省してしまうのですが(苦笑),こうした養育の帰結として期待される子どもの姿を,一言で言い表すこともできます。それは,これら価値基準が身についた姿としての「内在化」された姿です。
 言うなれば,自律性支援もストラクチャーも,それから両者を十分条件として決まる関与も,すべて学習に対する態度の内在化を期待する養育の要素なのです。Grolnickさんは,共同研究者と共に数々の研究を通して,こうした養育下で子どもたちが,そうでない子に比べて有能感たっぷりに,また自己調整的に,学んでいけることを明らかにしたのです。
 そう,大切なことは,Grolnickさんが述べるようにあくまで子どもの状態なのです。子どもを抜きにして'理想の子育て'や,'よい関わり'が決まるわけではないのです。その意味で「褒める」や「叱る」を,それのみで至上と謳う育児書(たとえば「子どもは褒めれば育つ!」など)は,困ったものですね。表の問い3はひとまず終わります。

7.Grolnickさんの研究(2)
 もう一つ,Grilnickさんの視点でご紹介しておきたいことがあります。3つのなかで最も重視される関与に関連する内容ですが,Grolnickさんは,子どもの「キュー(発信)」と,おとなの「ちょうどよさ」というキーワードを挙げています。
 たとえば「見守る」といった言葉で表現される関与は,一見,子どもの主体性を尊重している自律支援的な養育のように見えます。しかし,一概にそうとは言い切れないこともあるのではないでしょうか。たとえば困っている子どもがいるときにも,私たちおとなは見守るだけの関わりでよいのでしょうか。子どもが困っており,助けを求めている場合に,手を差し伸べてやることも大切な関わりなのではないでしょうか。
 このようにGrolnickさんは,子どものサインを捉えて適切であるかどうかを,関与の重要なポイントとして捉えています。さて,息子さんに対する細川さんの関わりは,いかがですか?(と,質問に質問で返す仕方でいつの間にか裏の問いもすべて終わります。笑)

8.習い事の調査(2)
 以上,整理してまいりましたGrolnickさんのフレームを援用して,いままさに私たちは調査を実施しているところでもあります。首都大学の酒井先生らの研究グループと共に進める現在進行形の調査であるため,限定的にしかお話しできないのですが,学習課題に取り組む母子を観察し,そこでの具体的なやりとりと,背後にある養育観との関連を探るという内容です。
 この養育観を,私たちの研究では,Grolnick & Ryan(1989)に従って評定しているところです。具体的には,Grolnickさんの先行研究を踏まえ,①宿題や学校生活とについて,②就寝時間や子ども部屋の掃除について,親に「どんなふうに関わっていますか」や,「ルールがありますか」などと聞いて,自律性支援の程度,ストラクチャーの有無,それから関与そのものを尋ねているのです。
 加えて私たちの研究では,③「習い事についてはいかがですか」という質問も加えています。これは言うまでもなく,細川さんのような悩みをもつ保護者の方が,わが国では極めて多いからです(笑)。
すると,日本の母子を対象とした私たちの調査においても,Grolnickさんのフレームを用いて個人差を見出せることがわかってきました。加えて,もう一つ気づいたことがあります。
 それは,「内在化」された姿を最終ゴールに置いた場合,細川さんが挙げた選択肢の一つでもある①「行かないならやめなさい」や,③「とにかく行きなさい!」は,Grolnickさん流に言えばコントロール(反自律性支援)でしかないのですが,至極日本的な養育として,評価できる側面も見出せるかもしれないということなのです。
 言い方を変えれば,日本の子どもの有能観や自己制御的な姿勢は,「ならぬものはならぬ」といった会津藩の「什の掟」のような関わりの下でも,育まれる可能性が示唆されつつあるのです。
 この点については,いろいろな考え方もあるかと思いますので,ぜひまた近いうちにご報告させていただければと思います。できれば,「子育て研究」誌上で(笑)。

9.最後に
 以上,長々と述べてまいりました。お付き合いいただきありがとうございます。そろそろまとめましょう。
 たいていの場合,子どもたちも,それから私たちおとなも,今を適切に言い表す言葉をもちません。言葉はひどく未熟で,「なぜあのときああ言えなかったんだろう」と後悔することしきりです。わが身を振り返ってそう思います。
 細川さんの息子さんも,あのとき本当に,「行きたくなかった」のでしょうか。「行きたくない」という言葉で,別の何かを表現したかったという可能性は考えられないでしょうか。
 さらに,「行きたくない」という言葉を発したすぐ後で,「しまった」と一人で気づくような姿はなかったでしょうか。つまり,「僕の言いたいことはそういうことじゃなかったんだ」と,自己を見つめる姿は見られなかったでしょうか。

 一方,細川さんはどうだったのでしょうか。もっともらしい言葉で息子さんを誘ってはいなかったでしょうか。いくつか後ろめたさもあるなかで,本当は,「こんな言葉,きっと薄っぺらく響いているよな」と気づいていなかったでしょうか。そして同時に,そんな風に気づきながらも,産後の体調の悪さをおして,息子さんのためを思って頑張ったのではないでしょうか。

 ともあれ,そうしたやりとりを経て,「習い事を楽しみ,自信をつけた」息子さんと,「あのときはあれでよかったんだろうか」とモヤモヤする,細川さんの今があるのですね。
 よくあるこうした子育てが,果たして子育てにおける'唯一の正解'かどうかはわかりませんが,しかしそれはどうでもよいことでしょう。あくまで大切なことは,子育ての唯一の正解を探すことではなく,息子さんと細川さんにとっての最適解を探すことに他ならないからです。そしてその最適解も,Grolnickさんに従うまでもなく,ほとんど息子さんに委ねられることですね。でも当の息子さんはと言えば,今はまだ自分でも上手く表現できなくて,それが試みられるのは,きっともう少し先のことになるのでしょうね。
 ただそれをまつまでもなく,いずれどこかの時点で細川さんにも訪れるでしょう。「やっぱり私の子だものね(笑)。夢を見せてくれてありがとう」という瞬間が(もしかしたらもうすでに訪れているかもしれません)。そのとき,今回尋ねていただいたこのやりとりが,きっと懐かしく思い出されることでしょう。たとえ,日本代表にならなかったとしても,子育ての幸せとはそういうことなのかもしれません。

 最後に,まだ上手く言葉をもたない息子さんに代わって申し上げ,このお返事を終わりたいと思います。「おとうとをありがとう。お母ちゃん,頑張ったね」。

(次回につづく)