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(続き)

梅崎  ここまで子どもの育ちに直結する存在として、保護者に目を向けてお話いただきました。ここからちょっと視点を子どもに変えていきたいなと思います。
 いい循環を回して、子どもをより健全にといいますか、子どもを大切に育てていきたいっていうふうに思うわけですけれども。主体的に育つということを一つの目標としたときに、その言葉から連想される子どもの姿ですとか、そのことの意味ですとか、あるいは主体性を大切に育てられた子どものその後(将来)ですとか、連想されるイメージをそれぞれの先生方に語っていただきたいなと思います。塚越先生いかがですか。

自分らしさと、人と関わる力

塚越  主体的、イメージとして、子どもに自分らしさを持ちながら周囲の人達と共に生活してほしいという気がします。社会の中で生きていくために、人と関わり人から助けをかりてやっていかなくてはならないので、その中で子ども自身が幸せを感じることが大切だと思います。

 お母さんが「この子はきっとこれなら幸せよ、と思っても必ずしもそうではない場合があります。子どもはどこにいても、自分らしさを出して幸せに生きて欲しいと感じます。自分らしさを出していろいろな選択をしながら、相手の気持ちを考えられるように生活をして欲しいです。それが子どもを主体的に育てていくことの延長線にある姿であると思います。

梅崎  一つは自分らしくあるっていうこと。もう一つは、その自分らしさを持ちつつ、人とも関わっていける。そんなのが主体性の二つの側面で、そのような主体性を大切に育っていった時に、自分自身で幸せであるという感覚を持てる。

塚越  はい。

梅崎  ありがとうございます。この辺りまた具体的なエピソードで、じゃあ具体的にはどんなお子さんの姿なんだろうとか、逆にそうじゃないお子さんの育ちってどういう問題があるんだろうとか、伺っていきたいと思います。つぎに松永先生はいかがですか。

松永  生き生きとしてるというイメージ。やっぱり塚越先生もおっしゃっていたように、主体というのは、イコール自分勝手という事ではなくて、自分の意見も出しつつ、相手を気遣ったりだとか、受け入れたりとか、そういう人とのやり取りを上手にできる。人とのつながりがうまくつくっていけるように・・・時には人を頼っていいんだと伝える事も必要かなと思います。

梅崎  面白いですね。今、主体っていう、子どものことを話しているわけですが、子どもの中に閉じた話じゃないんですよね。やっぱり人との関係の中でっていうのが出てくるんですよね、人とうまく関われるという。

主体性獲得までの道のり

松永  大人がああしなさい、こうしなさいではなく、人とうまく関われる部分に辿り着くまでには、いろんな葛藤があったり、揉め事があったり、じゃあ今度こうしようかな、でもうまくいかなかったなとか、そういうたくさんの子ども同士のやり取りがすごく重要で、そこに辿り着くまでの過程を大事にしたいなと思っています。

梅崎  今のも私、あっ、キーワードだなって思ってお聞きするんですけど、始めから主体的な子どもってきっといない(と思う方がいい)のかなっていう。

松永  そうですね。私もそういう風に思います。

梅崎  だからきっとそこに親の役割りというか、大人の役割りというか、出てくるのかななんていうふうに思うんですけど。森田さんは?

問題を解決する力

森田  主体的であるというと、自分で決められるとかそういうことがパッと浮かぶんですが、やっぱり子どもは最初から上手にはできないっていうところもありますよね。子どもが主体的であるということは、子どもの中の問題解決力というようなものが、それぞれのやり方で、だんだん身についていくっていうか、自分で獲得するプロセスをちゃんと確保するというかですね、そういうことなんじゃないかなと私は思っています。
 でも、子どもの問題解決力って時々非常に自分勝手だったりとか、全然周りを見てなかったりとか、全然それって駄目じゃんみたいなこともあるんだけど、そういう失敗をいっぱいできるとか、そういうようなことを通して、いろんな体験をして、自分で選び取っていけるようになった姿が、主体的な子どもなんじゃないか。つまり、子どもが主体的に物事を考えたり、決めたり、自分なりに何かを乗り越えていこうとすることができたりという。まあ、その時には、大人の力を借りたっていいし、全部一人でやらなきゃいけないっていうことは全然ないし、だけど自分なりに考えて行動するというような。
 その時期はきっとわりと早い時期にできる子もいれば、だいぶ経ってから、やっと他の子と同じようにできる子もいるかも知れないし、その子に応じてなんだけど、そういうプロセスに周りの大人が振り回されながら、だんだんできていくっていうことなのかなというふうに思いますね。だから、主体的であるっていうことは、必ずしも最初は皆の中でうまくやれてるということとは限らないけど、でも最終的にはさっき言ってくださったように、関係を自分なりにうまく築いていけるとか、物事を決めていけるとか、そういう力、主張できるとかそういうことだと思います。

関係性の中の主体性

梅崎  3人の先生方のお話を、私の方で勝手に統合させていただくと、主体的であるとは、ある種のこういうことができるみたいな、能力獲得みたいな点が共通のイメージとしてあるんですけれども、そこに至るまでにどういうプロセスが必要かということを併せて考えていく必要がありますね。そして、保護者であったり、保育者であったり、支援者の役割りがそこで必要になってくる、出てくるんだと。
 そこで皆さんが、主体的な子どもを育てるために、(1)保護者としてどんな活動を行なっておられるか、(2)保育者として保育の中でどんなことを心がけておられるのか、(3)支援者の立場で、子どもに、保育者に、保護者に、どんな働きかけをなさっておられるのか。それぞれ教えていただけたらと思うんですけれども、(支援者の立場で)塚越先生いかがですか。

塚越  主体的という姿は、人との関係性の中から出てくるものだと思います。主体性といっても、自分の考えや思いを相手を無視して主張すれば、単に自己満足だと思います。しかし、相手の考えを理解しながら、相手の立場を考えると、本当の主体性が現れて相手との関係がより良いものになり、お互いに共感できる部分も現れると思います。このように主体性をもっと具体的に考えると身近なものになる可能性が大きいと思います。
 現在、私が具体的に取り組んでいることは、子ども達が社会に出ていくために、相手の立場を考える姿勢を身につけることです。例えば、先生や友達と電車に乗りそこで友達とトラブルが起こったとします。そこで、嫌なことがあったので電車から降りてしいまうのではなく、そこで「先生、~君と~あった。」とか、「電車から降りたいよ」と先生に困った事を伝えることです。自分の気持ちを少しでも人に分かるように伝えること、また、困った事や嫌な事を相手に分かってもらい助けてもらうこと、をすることが大切です。そうすることで、一人で困り感をもって我慢することはありません。子どもが何が嫌だったのか、何をしたいのか、周りの人に分かってもらう努力とスキルの獲得について応援することが私たちの仕事の一つと思っています。

梅崎  そういったことが、先ほど教えてくださったスキルトレーニングの一部でもあるんでしょうか。

塚越  はい。保護者や先生方の中には、他児と同じように行動すること、"皆と同じ"を求めますが、個々の思いや考えをもっと考慮する大人が増えれば子ども達がもっと活躍ができるだろう思います。私達大人がそこを考え、子ども達が活躍できる環境をつくることが大人の役目であるので、そのために、大人は勉強する必要があると思います。

梅崎  子どもの、主体性の向こうに社会があるみたいな、そういうイメージですかね。

塚越  はい。

梅崎  (保育者の立場で)松永先生は保育の中でどんなふうに?

幼稚園の3歳児

松永  そうですね、就職したての頃は、入園してきた子ども達が卒園するまで、ここまでできていないと小学校に行ったら困るだろうというふうに考えていました。勝手に先回りして心配して、子どもに関わっていた部分がなかったとは言えなくて。でも、そうではなくて、子どもは卒園後、小学校卒業後もずっと生活があるんですよね。大きく言えば「生きる力」を育てるのが、今のこの時期に大事なのかなっていう考えに少しずつ変わってきました。
 3歳児で幼稚園に入園して来て、当たり前なんですがすごく個人差が大きい。その中で、自分が発信したことを親以外の大人も受け止めてくれる、どんな自分も受け止めてくれるっていう経験をする中で、自分を出してもいいんだと、安心できる。その安心できる環境の中で、少しずつ視野が広がっていって、お友だちがいるんだな、なんか楽しそうなことしているな、やってみたいなと思う。でもやはりそこで上手に関われなかったりする子もいる。言葉がうまく出なくて、ちょっかいを出して表現する子もいれば、ちょっと押してみたりとか。その中で、「そうだよね、遊びたかったんだよね」って。そこで「叩いちゃ駄目、やっちゃ駄目」ではなくて、(もちろん危険な行為は叱りますが)「一緒にやりたかったねー、一緒に読みたかったんだよねー」と共感しながら、「じゃあこういうふうに関わってみようか」っていうモデルを提示することも大事な役割だと考えています。もちろんそれが入園前からできるお子さんもいるので、それは個々に応じてなんですけど。
 先生はこんなふうにお友だちに言ってたなとか、そういう中で、少しずつ少しずつ自分の気持ちを言葉で表現できるようになっていって、友達と一緒にいる楽しさを感じる。その段階を経て、友だちと一緒に共通の認識を持って遊べるようになる。年齢や経験を重ねていって、例えば一つのものを皆で作ろうとなった時。「自分はこうしたい」。「そうだね。でも、自分勝手にこう言ってて、お友だちはどんな顔してるかな」とか。「皆はそれでどう思う?」とかお互いの橋渡し役も時には私達の役割であると思います。さっきと話が重なる部分があると思うんですけど、何か一つのものを作り上げることはもちろん目標なんだけれども、そこまでに行くプロセスをすごく丁寧に見守りながら、(意見がぶつかることも当たり前)時にはちょっとアドバイスをしたり、一歩退いて回りに目を向けられるように働きかけることが、今考える保育者としての役割りかなと思います。

梅崎  プロセスを飛ばして目標提示ということではなくて、子どもの思いがあって、それがうまく達成されない時に初めて保育者の関わりが、出てくるっていうようなイメージですかね。

松永  失敗してもいい。失敗しても、じゃあ次どうしようかっていうその乗り越える力は、そこでまた育つのかなと。もちろん順番を守るとか、お友だちを叩いちゃいけないっていう部分は、躾の部分として、考えるプロセス云々よりも、伝えなきゃいけない部分だと思うんですが、そこでの子どもの気持ちを汲んであげること、「そうだよね、早く手を洗いたかったよね。でも順番だよ」とか、やみくもに駄目、駄目っていうふうにはしないようにっていうことは意識しています。

梅崎  松永先生、その(ここで表現された)思いと、かつて先生の中にあった保育観として、小学校に行くまでにここまでできるようにしてあげないと子どもが困るんじゃないかという思いとは、相対するものなんでしょうか。

卒園がゴール、ではない

松永  ゴールが卒園ではないということに気付いたので。子ども自身の育つスピードもやはり個人差がすごく大きいので、今ここでこれができなくって、その出来ない事に一生懸命になるのってどうなのかな?と思ったりして。例えば、鉛筆の持ち方が上手にできないとか。今できなくても、それが大人になってもできないかと言ったら、そうとも言い切れず、今の時期にそこを強制させて一生懸命になるよりも、その子の持っているその子らしさをうまく引き出してあげたり、クラスの中での活躍の場を持たせてあげたりとか、さっき言われた自己肯定感っていう部分を育ててあげるほうが、大事なんじゃないかなっていうふうに感じるようになりました。

きれいごと?

梅崎  先ほど森田さんのお話の中で、3人目のお子さんなんかをお持ちのお母さんだと、まあ大丈夫、大丈夫みたいな感じで、松永先生がなさるような保育にも理解を示してくれそうな感じなんですけど、最初のお子さんだった時に、松永先生の思いがちょっと分からず、「いや先生、先生が言われることはきれいごとで、小学校に行って困っちゃうのはこの子だから、なんとかしてくれ」みたいな、そういうぶつかり合いはないんでしょうか、現場で。

松永  実際、そうですね、言われたことあったかな。

梅崎  ではその辺りについては、保護者に丁寧に説明をして、理解を求めることになる。

松永  そうですね、はい。自分の思いをお話させていただきます。こうじゃなきゃいけないじゃなくて、私はそういうふうに考えるんですがいかがでしょうか?っていうようなお話の仕方はします。そうすると、そうですねっておっしゃってくださる方のほうが多いですかね。もちろん、保護者の思いは汲みながら対応をします。

(次回に続く)