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保育のクロス・ロード 4

梅崎高行/細川美幸 往復書簡

掲載:2014年2月11日




あなたは保育者
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 年長の子どもVS. 保育者のドッチボール対決。子どもたちはたくましく育ち、4月からの小学校生活にも期待が膨らむ。しかし、そうは言ってもまだ子ども。彼らが投げる緩い球を難なく受け止めたあなたは、それを子どもめがけて思い切り投げ返す?

梅崎  先日、お世話になっている保育園に声をかけ、園児50人を招いてドッチボール大会を開催しました。園児2チーム、学生2チーム、4チームの総当たり戦です。結果は見事に子どもチームの一方が優勝。楽しい時間を過ごしました。
 上のクロスロードを読み、一体どこがクロスロードなのかと思われる方もいらっしゃるでしょう。事実学生たちも、それぞれに力を調整し、子どもたちとのドッチボール対決を成り立たせていたように思います。
 これを見ていた園長先生が、この光景を残念に思われた、というのがこのコラムの主題です。「学生同士の対戦だと、容赦のないボールが飛び交うのに、子どもとの対戦だと、強いボールは ' 大人げない ' と評価されるのですね」。これは実際に、園長先生がおっしゃった言葉です。そこで次のように考えてみましょう。 ' 大人げがある ' とは、どのような態度なのでしょうか、と。  関連して宮崎(私信/*1) は、「子ども主体の保育」における大人の役割を、鋭く問題視しています。

 
昨今流行している話し合いやその他の活動において、大人は子どもの主体性を安易に想定し過ぎている。このような ' 主体性バンザイ ' の保育に共通するのは、一見子ども中心主義のようでいて、実は、環境設定と称して子どもを外から操る大人のありようを、暗黙のうちに想定していることだ。このことは、話し合いの場でしばしば保育者が、見守る―消極的な―スタンスを取りがちだったり、単なるタイムキーパーに成り下がりがちだったりする点に表れている。本当に主体的な話し合いは、保育者の鋭い発問なしにはありえない。そのための個性理解や活動理解が保育者にとっては必須だということである。このように保育者の発問が必要だと言うと、保育者主導ではないかと批判される。しかしそうではない。個性理解や活動理解、すなわち保育者の学びが、子どもの真の主体性を支える上で不可欠だという、学習する保育者についての主張にほかならない。

 ここで宮崎の議論を、身体差が決定的に現れるドッチボール対決にも敷衍できるか、という問題は置いておきます。考えたいのは、話し合いにせよ、ドッチボールにせよ、子どもの育ちのために大人がどうあるべきかという議論です。
 最後に一つ付け加えたいのは、この日、宿題を頂戴したのは、学生たちだけではなかったということです。かく言う私も、大きな宿題をいただいたのでした。
 大学の運動場は人工芝のため、マーカーと呼ばれる印を使ってコートを作成しました。普段、園庭では、じょうろの水をまいて線を書きます。マーカーで書かれた線は園児たちにとってわかりにくいかなと思い、引率してくださった主任の先生に、「子どもたち、これでわかるでしょうか?」と尋ねたのです。すると主任の先生はこうおっしゃいました。「わかるかどうか、子どもたちに聞いてみてください」と。
 ああ、子どもがわかっていないのは私です。
 さて、細川さん。細川さんは子どもにどんな球を投げますか?


細川  面白いテーマをありがとうございます。細川の答えは「細川は本気で投げる」です。
 ただ、考えさせられる出来事がありました。それは、短大で、地域の子ども達を招いて遊びの祭典のようなイベントをしたときのことです。各クラスで、様々な場所で様々な遊びを子どもたちに提供するのですが、そのとき、私たちのクラスでは外遊びを展開していました。そして、かけっこ遊びのときのことです。参加した小学生の男の子と短大男子学生の競争となりました。私は、男子学生に本気で走るよう促しました。男子学生は本当に本気で走りました。小学生の男の子たちはみるみる引き離されました。すると、ゴールまであとずいぶんもある途中で、小学生たちがコースを脱線し、歩き始めました。そして『つまんなーい』と捨て台詞を残し『行こう、行こう』と、去って行ってしまったのです。そのとき私は呆気にとられてしまいました。
 しばらくして浮かんできたのは、「なんと弱いこと」「お膳立てされる遊びばかりを体験しているのかしら」「コンチクショー、とかいうガッツが無いのかな」と小学生を批判する考えでした。しかし、次に、私は、子どもと「本気で関わることが良いことだ」と思っていなかったか、決めつけていなかったか、と自問しました。 考えてみると、人と人との出会いの中で、初対面から100%全力で向き合われると、辟易することがあるな、と思いました。また、2歳児相手にオセロを本気でやったとて、面白いか?と思いました。ああ、頃合いをみて本気勝負をすればよかったのかな、と反省したのでした。なにより、まず小学生のほうを責めた自分がお恥ずかしいかぎりです。
  ' 頃合いをみる ' という、プロセスというか、まなざしと言うか、関わり合いにおける専門性のようなもののほうが、重要なのかもしれません。つまり、「できないと思って本気を出さない」のも「本気でぶつからなきゃ」と思うのも両方あまり変わらないのかもしれないな、とか。そんなことを考えさせられました。小学生とまたかけっこしたいです。あ、でも私はきっと本気を出してもすぐに負けるだろうな。だって50m10秒ですもん。
 梅崎さん、どうですか?


梅崎  細川さんって、足が遅いんですね。意外…。
 さて、気を取り直して。
 クロスロードで取り上げたできごとの後も、当該園の園長先生とやり取りを続けています。その後に届いた園長先生の言葉を紹介して、このコラムを閉じることにしましょう。そうしてこれからも、考え続けたいと思います。
 「本気で独り勝ちしたら本当に大人げない」けれど、「本気で子どもと楽しむ」ことができればすごいなと、あれ(ドッチボール対決)以降、私も考えています。


*1 宮崎清孝、早稲田大学人間科学学術院教授。宮崎の考えについて、次の著書をお勧めします。宮崎(2009)『子どもの学び 教師の学び』一莖書房