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保育のクロス・ロード 8

梅崎高行/細川美幸 往復書簡

掲載:2015年2月8日




あなたは働く妊婦
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 職場では産前産後休暇が取れますが、その間は無給です。生活費の貯金があまりありません。あなたは産前休暇を取らずギリギリまで働く?

細川  実話です。
産休・育休についての厚生労働省のページです。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/pamphlet/dl/31.pdf

特に産後8週間は、就業できません。もちろん母体を守ってのことですが。
就業できない、そして、無給である。(手厚いところでは産後8週間の給与が全額支給される職場もあるようです。が、そうすればその期間は代替を雇えない、とか。)
産前産後フルに休暇を取りたいと思ったら約4.5ヶ月間の貯蓄が事前に必要になってきます。保険料の納付が免除されたり、雇用保険から無給中にいくらか補てんがあるようですが、いくらかの補てんは、産休中にリアルタイムでいただけるのではないようです。あとから戻ってくる、という感じです。

どのご家族も、貯金をしながら出産をされているのか、私が能天気すぎたのか。
休める・休むべき期間を定められている、が、お給料の有無は所属の会社次第、むしろ無給の職場が多いという現状に「おっと、びっくり」した最近でした。

ちなみに、私も、26日が帝王切開の予定ですが25日まで働きます。
現在、臨月であっても、出産前に授業(11科目)を15コマこなしてしまうこと・試験・採点・学生指導などのために補講を入れて例年より1.5倍ほどの仕事量をこなす日々を過ごしています。

それでも、産後の1月から3月の間は、職場の方々に私の仕事の負担がかかりますし、申し訳ない気持ちもいっぱいです。
同僚として負担がかかるのは、男性職員であったり、未婚や妊娠されていない女性職員の方々です。
「出産は休む権利がある!」と堂々としていられるわけではありません。

子育て支援も含め、その他いろいろな制度も、作られたら良い、というものではないな、と、つくづく感じているところです。社会を変えよう、制度を変えよう、そうすると生きやすくなるか、というと、そう単純な問題ではないように思えます。

だからこそ、クロスロードは永遠に続く気もします(笑)。
クロスロードに耐えるというかクロスロードをこうやって楽しめる(?)考え続ける(?)耐性が梅崎さんのおかげでついてきた気がします。

梅崎さん、どうですか?
仕事がこなせる男性職員として、職場でも負担がかかるほうの立場であることが多くないですか?


梅崎  ある教員が、産休~育休中に別の大学へ異動したそうです。知人の勤める大学の話です。クローズアップされる、育児と仕事の両立をはかる女性が職場で被る不利益・嫌がらせとは、また異なる話ですね。そして今回、坂口さんのお話は、このどれとも異なります。言わば第三の問題です。お読みしながら思い出しました、あの頃を。
どの頃って?
決まっているではないですか。「子産み・子育てと動機づけシンポ」を開催したときの頃をです。
ご存知ない読者のために少し書きます。坂口さんと梅崎は、数年前に別の学会で、そのようなタイトルのシンポジウムを企画したのでした。モチーフは、中山まきこ先生(同志社女子大学)のご研究です。中山先生は、論文「妊娠体験者の子どもを持つことにおける意識―子どもを<授かる>・<つくる>意識を中心に―」を書かれました。ご本人は、「よくこんな古い論文を見つけたわね」とおっしゃいながら、ご登壇くださいました。シンポは2008年の開催、論文は1992年の発刊でした。

間もなく2015年を迎えようとするいま、中山先生が論文で取り上げられた問題は解消されたのでしょうか。あと数日で第二子ご出産という状況(!)において、坂口さんはまさに問題の渦中を生きていらっしゃいます。それを思うと、残念ながらと言うべきか、1992、2008としてきた議論はちっとも古びていないようです。

そこであらためて問いましょう。子産み・子育ての当事者は誰なのでしょうか。

言うまでもなく母親さらに家族だとして、再びシンポジウムの結論を持ち出せば、この国では'まだ'と言うべきか、'いつからか'と言うべきか、子産み・子育てにおいて当事者不在の議論が続いているようです。いま一度、「主体の選択を支える」社会について、考えるべきときを迎えているのかもしれません。

その上で、坂口さんの問題をバッサリ切り捨てようと思います。臨月の坂口さん、大変な思いをしながら書いてくださったのに、ごめんなさい。これは「クロスロード」と呼べないのではないでしょうか。なぜかといえばこの問題が、主体としての葛藤には当たらないと思うからです。怒りを込めつつ申し上げましょう。坂口さんの問題は、単に未成熟な社会の問題でしかない/対話の末に目指される合意形成の余地がない、そんな問題であるように思えるのです。
「クロスロード」は、本コラムを始める上でも書かせていただいたと記憶しているのですが、危機に直面したダブルバインド(あちら立てればこちら立たず)の主体を考える、コミュニケーションツールです(詳しくは、矢守克也・網代剛・吉川肇子(1995)「防災ゲームで学ぶリスク・コミュニケーション―クロスロードへの招待」ナカニシヤ出版 をご覧ください)。阪神淡路大震災の聞き取り調査がもとになって開発されたカードゲームですが、こんな問題が収録されています。「あなたは食料担当の職員。被災から数時間。避難所には3000人が避難しているとの確かな情報が得られた。現時点で確保できた食料は2000食。以降の見通しは、今のところなし。まず2000食を配る?」

もちろん避難食の問題も、掘り下げていけば個人が暮らす社会の問題にたどり着きます。しかし、あくまで「クロスロード」の射程は、個人にあるのだと思います。そうだとすれば、今回の坂口さんの問いは、「クロスロード」には当たらないのではないでしょうか。代わって坂口さんの苦悩は、私たちに考えるべき別の課題を提供してくださっているように思えてなりません。つまり私たちは、当事者にクロスロードの余地がない私たちの社会について、もっと議論していかなければならないのではないかと。

最後に、子どもの側にも立ってみましょう。坂口さんがいま抱える問題は、間もなく誕生されるお子さんの成長に伴って、つぎの問題を生むでしょう。より正確に言えば、坂口さんやご家族だけでは、なかなかどうにもできない問題を生むでしょう。たとえば、預けたいのに預けられないといった内容です。
そのような現状で行政に当たる人は、「子どもを預かる仕組みは急速に整えられていますよ」と言うかもしれません。確かに量的には、大都市を除いてほぼ、待機の問題は緩和されつつあります。しかし、そこに主体としての子どもの視点は、どの程度まで大切に考えられているでしょうか。預けたい家族のための仕組みは、どのくらい、家族と過ごしたい子どもの仕組みになっているしょうか。

ある保育園が編集した著書に、子どものこんなつぶやきが掲載されています。いつか見学させていただきたい、そう思わずにはいられない素敵な園です。ここでは子どものつぶやきを、(あるいは編者の意図とは異なるかもしれませんが)こんな風に読んでください。こんなに素敵な保育園があり、園の生活を満喫する子どもがいる。それでも、その子どもはこう思っていると。

 かあちゃんに いちにちじゅう あまえたい
(川和保育園(編)(2014)「ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」 新評論」)

「子育て学会」は小さな小さな集まりですが、それでも声を上げたいと思います。主体の選択を支える社会の実現に向けて。

追伸 坂口さん、出産のお祝いは神戸で派手にやりましょう!次回の子育て学会@甲南女子大学(2015年11月28日~29日)では、託児を完備してお待ちしております!!


細川  返信をありがとうございました。

梅崎さんは、シンポを思い出されていたのですね。私はその前の、梅崎さんと出会ったソーシャルモチベーション研究会(2007年、夏)を思い出していました。社会的動機づけ、社会、という視点、です。

今、逆子で、なので帝王切開なのですが、そのことを周囲に言うと、9割の人が、「あらー」と言います。そして「治るといいね」や「逆子体操しなきゃね」という反応です。
つまり、逆子より通常の状態が良い、帝王切開より自然分娩が良い、という社会の認識を感じます。

帝王切開で出産した人たちが悩み、育児でストレスを感じているということがあるそうです。
「自然分娩できなかった自分」を責めるのだそうです。

昔は、自然分娩で産むために逆子を治す必要があったかもしれません。しかし、今は、逆子を帝王切開で出産すれば母子ともに健康に生まれるのです。
赤ちゃんが、望んで逆子なのかもしれないし、望んで帝王切開かもしれないし、そういう「授かり方」なのかもしれないし、「自然分娩できなかった母親が悪い」と言うことはないにもかかわらず、母親たちが自分を責めるのは、なぜか?

考えさせられます。

産休、育休を取る、働く、辞める、預ける、母乳で育てる、ミルクを加える、布おむつで育てる、紙おむつを使う、携帯を与える、与えない、・・・
子産み子育てに関して、社会(他者)が個人の葛藤に関与しない、ということはない、というより、個人の葛藤は社会によって生み出されていることがほとんどではないか、とさえ思います。

誰からも何も言われなければ(または気にしなければ)、葛藤は無いのかもしれない。

いや、でもやはり、社会だけではない。個人の葛藤もありますね。
例えば、託児が完備されているからといって、預けることができるか、は、「わたし」の問題です。
「この子と居たい」想いと「学びたい」想い、など。

このあたりは、また出産後、来年度のクロスロードで。

何と何の葛藤なのか、どういう対立軸だと終わらない対話になりうるか、整理します。
子育て学会は今度、神戸なんですね。楽しみです。

では、産んできます。
経験値が増えます。