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子育てのクロス・ロード 7

梅崎高行/細川美幸 往復書簡

掲載:2021年3月19日




【あなたは保護者です】

ある日、小学生の我が子の持ち物が壊れていました。
子どもに聞くと、友達が壊したとのこと。
あなたは、このことを学校の先生に伝える?
YES/伝える NO/伝えない

細川  
 保育園や幼稚園の先生と、小学校の先生との距離感の違いは、親にとっての小1ギャップともいえるほど、慣れるのに時間がかかった保護者は多いのではないでしょうか。就学前のころは、小さい傷も、トラブルも、先生たちが見ていたとしても見ていない場面だったとしても、送迎時やお電話等で先生が保護者に知らせてくださいます。また、子どもたちも、何かあれば「先生~」と言いに行き、報告をします(もしくは、言いつけに行ったり、助けを求めたり)。
 でも、小学校になると、先生が見ていない時間ももちろん増え子どもたち同士の時間が増えますし、さらに、子どもたちも、もう大人にわざわざ言いません。知らない傷が増えたり、知らないうちにトラブっていたりしながら、子ども同士の中できっと成長していくのでしょう。きっと。そう、きっと。そう思って、親である自分自身も、〔なるべく良識ある親でいたい〕と思い、口出しをせずにいよう、と思うわけです。
 が、やはり凡人な私、「これ、先生に伝えたほうがいいのかな」と思うときがあるのです。皆さん、どんな判断で、先生に言ったり、言わなかったりしているのかなあ、と思って。
 梅崎さん、どうですか?




梅崎  
 細川先生,お久しぶりです。2年振りくらいでしょうか。もうどんなテンションでこのコラムを書いていたか,すっかり忘れてしまいました。この2年で私も歳をとりまして,どんな筆致を用いていたのかさえわかりません。そうそう,わが子も大きくなりました。すっかりかわいくなくなりまして,正直最近では,あんまり子育てのことを考えておりません…
 そんな,復帰戦の私にとって,この問いは厳しいなあ(笑)。精一杯頑張って,2つのパタンで整理してみますね。

(1)伝えない
 まず伝えないとしてそれはなぜか。これは,子どもから訴えのあった問題ではなかった点が大きいと思います。仮に子どもが「今日,○○とこういうことがあって,××が壊れた」との訴えがあれば,どうしてほしいかを尋ねたかもしれません。それにより,先生に言ってほしいとか,○○に言ってほしいとか,気持ちを聞き出すことができれば,その後の展開を考えたかもしれません。でも今回の場合は,親である私が気づいてしまったのですよね。見ないフリ,気づかないフリをしてやり,いずれ困って訴え出てくるのを待つようにするかなと思います。
 もっともそのとき,筆箱にせよ,リコーダーにせよ,「また買ってもらえばいいや」などと物が壊れたことを軽視して,子どもが言わずにいた(言うことすら忘れていた)ことが発覚すれば,物を大切にすることをめぐるコミュニケーションを図りたいかなと思います。

(2)伝える
 伝えるとして誰に何を言うか。私は,子どもの発達を,親子の相互作用の観点から時系列的に考える研究者ですけれども,親の行為は子どもに内在化すると考えています。つまり,こうしたできごとをめぐって親が誰に何をどんな風に言うかが,そのまま子どもに引き継がれる可能性を想定するものです。
 子どもに願うのは,言うべきことは言う。ただし,相手を尊重して言うといった態度の形成ですから,誰に何を言うにせよ,まずは言うべき問題であるかどうかを見定めなければなりません。そのために最初に為すべきは,どうして壊れたのか,子どもに詳しく聞くということですね。それによって,たとえば子どもたち同士がふざけ合ってそのできごとが生じたのだとすれば,今度の問題は先生に伝えるような内容ではないでしょう。もしかしたら,わが子の方が,相手のお子さんやその子の所有物を,大きく傷つけ損なっている可能性だってあります。言う場合には,その辺りを見定めてからかなと思います。

 以上ですが,ふと考えたのは,いま私は,息子(小学2年生)の先生のことをよく知らないなあということです。コロナで軒並み学校行事が飛んでしまった事情も関係しているのですが,先生が,相談する前提の関係にないということを思いました。ちょっとこれを機に,息子に学校のことや先生のことを聞いてみようと思いました。

 以上,何だか優等生的な回答でおもしろくありませんが,歳をとったということで許してください。






細川  
 梅崎さん 
 お返事をありがとうございました。復帰戦に難問でしたね。
「親の行為は子どもに内在化する」という言葉は、その通りですね。また、他でもない自分(親)自身も、自分の親の行為が内在化していて、知らず知らずのうちに、自分の親と同じように、我が子に子育てをしているのでしょうね。

 今回のコラムをきっかけに、これまでのクロスロードを読み直してみました。とても些細なこと、どこでもアルアルを、毎回テーマにしてきたな、とあらためて思いました。そして、最近考えていたこととつながりました、それは、「生活を共にする」ことの難しさと意味深さです。生活を共にすればするほど、【折り合いをつける】ことが求められる場面が増えるように思います。最近、新婚さんの心理面接をしていて、特に実感しました(笑)。誰かと生活していくとなると、お互いに生活リズムや価値観や自分尺度をゆるやかに調整・修正していく必要がある。その連続です。しかし、かたくなな人は、相手(の尺度や在り方)を変えようと試み、思い通りにならないと攻撃することさえあります。親子間だって同じです。親も、子どもの姿によって、自分の尺度や、それこそ、親によって内在化されたある種の価値観や養育態度を、少しずつ修正していく必要があるのだろうな、と、考えさせられました。しかも、それを可能にするのは、このような他者との対話が支えになるのではないかな、と。対話できる他者がいるのは、子育てに必須ですね。梅崎さん、いつもありがとうございます。