
著者:グニラ・ダールベリ/ピーター・モス/アラン・ペンス(浅井幸子・監訳)
出版社:ミネルヴァ書房
出版年:2022年
出版社書籍案内ページ:https://www.minervashobo.co.jp/book/b594005.html
評者:鈴木光海(会員)
投稿日:2026年7月21日
本書は、「保育の質」という概念に対し、批判的検討を加えつつ、評価を再考した一冊である。著者のダールベリらは、普遍的かつ数値化可能な「質」の追求が、多分に大人の管理主義的関心や、ある種の近代的エゴすなわち人間中心主義的な評価基準に基づいていると問題提起する。
現在社会においては、時間をかけずに即時的かつ実質的な成果をあげることが「質の向上」とされがちである。しかし、このような市場論理的なアプローチは、幼児教育・保育が本質的には「時間をかけて少しずつ」育むものであるという前提を忘れさせ、その過程で多くの大切な要素を削ぎ落とし、破綻させていく危険性を孕んでいることを指摘している。ここには、人為的な予測や管理の枠組みを超えて進行する気候変動に対し求められる調和や、併存する人間中心主義による弊害への批判や検討も含まれることが考えられる。
日々の保育実践や子どもの観察において、例えば自然環境の中に身を置いた子どもたちが、大人の意図した教育プログラムを超え、自発的かつ高次に環境と調和し、生命力を発揮する姿はしばしば目撃される。これらはまさにmore than humanであり、五感を駆使して世界を感知する能力において、子どもは大人以上のものを有していると考えられる。大人がコントロールし得る領域は極めて限定的であり、子どもは自ら世界と関わりをむすぶ潜在能力をすでに備えている。「とんでもない!100はすでにある(Malaguzzi, L., 1993)」のだ。
こうした実践的かつ学術的実感は、本書が提示する「子どもを文化と知識の共同構築者として捉える」という評価パラダイムの転換と共鳴する。著者らが提示する「ドキュメンテーション(保育の記録)」の本質は、既存の正解に子どもを導く手法ではなく、これまで客観主義的な評価によって捨象されてきた「子どもの生(せい)の声」や固有の文脈を、対話可能なものとして記述・可視化する思想的実践である。主権は大人にあるのではない。大人ができることは多くなく、ただ子どもを愛し、信じ、その生のプロセスを見つめ続けることに尽きるのである。まなざしや支配のもつ危険性に注意しながら「あなた(あなたたち)のことを知りたい。教えて。」という保育者およびアトリエスタの想いや声を、よりフラットに淡々と、子どもたちへ伝え続ける営みである。これには目的や誘導もなければ明確な終点もない。対話と意味生成に徹するものである。さらにこの記録は、子どもだけでなく大人側の構築や意味生成に関する省察や自己ケアをも引き出し、促していく。
それは、大人側にも時間と気力を要求し、ときにかえって労力の要る営みである。競争、市場原理また画一的な価値基準や社会的望ましさがしみついた私たちには、うけいれられないことを、なんとかうけいれることの繰り返しでもある。一方で、「そうきたか!」の発見や「今この瞬間だけ」の喜びにも数多く出会う珠玉の営みであるとも言える。そしてそれは、どちらかが教え・教えられる関係でもなく、そこになんから画一的な価値を求めるものでもない。評価し・評価される関係でもない。EvaluationからAssessmentを超え、ただひたすらの相互理解と、共同構築なのだ。
本書は、単なる保育技術の指標ではなく、子どもを管理・測定の対象とする大人の傲慢さを省察させ、本質的な認識論的問いを投げかけている。私たちが硬直化した「質」の呪縛から解放され、時間をゆったりと確保したとき、あるいはときに空間および時間における瞬間移動(!子どものパワーはすごい。)をも経験するとき(互いに急激に成長する瞬間にもたびたび立ち会いながら)、あらゆることをはなち(はなたれ)・ゆだね・うけいれる保育の豊かさに立ち返ったとき、初めて、子どものそして保育者のありのままの生のあり方と対峙することが可能となるだろう。子育てにも通ずる保育・幼児教育そして当該領域の研究における質および評価のあり方を根底から再考させられる重要な一冊である。訳の日本語の素敵さにも、ご注目されたい。
本書を読み終え、私は、日本語の歌であるMr.Childrenの「タガタメ」と、藤井風の「満ちてゆく」を、つい聴き直してしまった。こちらも同時に、おすすめしたい。
【評者】
鈴木光海(福島大学)